ほらふき男爵“世紀末ドイツ旅行記”


第四日目
7月5日(月)

7月5日(現地時間AM06:00ごろ)

またぞろ今日も早起きでございます。 なにしろAM07:30にホテル前集合でございますからな。かの角のミュラーで(こちらも早起きですな!)朝食を揃え、吾が輩たちはすばやくホテル前に顔 を出しました。するとこちらも同じくヒルトンに宿泊しているとおぼしき母娘がおりまして、一番乗りはこちらに獲られてしまいましたわい。

およそ予定時刻通りにバスはやって来 て、ぞろぞろパック客が乗り込みます。が、二名だけまだ遅れております。吾が輩生来がガラッ八なものでして『そんなのァ置いてきゃいいんだ』などと悪態つ いてしまいましてな、結局10分待ったところで連絡もつかず、添乗員さんも見切りをつけ、バスは出発とあいなりました。
バスはわざわざフランクフルトからチャーターされていて、添乗員さんはこの道17年のベテランにございます。南ドイツならドンと来い(死語)という頼りになる御仁でしてな。でもそれなのにお住まいはフランクフルトという、なんともお忙しいお方ではございます。
バスは30分ほどミュンヒェン市内を走り、それからアウトバーンを1時間ほど飛ばすそうでございます。飛ばす、と申しましたが、現在環境問題の観点から、 大型車は上限速度130qと決められているそうでございます。普通車は基本的に無制限らしく、吾が輩たちのバスの横をビュンビュン抜いて行きよります。そ の速さで、車線変更も頻繁なのですから、みなさんどこへ急ぐのかそれともスピード狂なのか、免許を持たぬ吾が輩には判りませなんだ。

アウトバーンを降りると、またぞろ 30分ほど田舎道を走ります。まず向かうはリンダーホーフ城。こちらはいにしえより国境線の入り組んだ地域でして、時の領主ルートヴィヒT世(狂王の直接 のお父上ではありませぬゾ)は、前線基地としてここに砦を築きたく考えていたそうにございます。しかしそのような真似をすれば国際関係に緊張を生み、いた ずらに国境紛争を引き起こしてしまう公算が大でございましたそうです。そこでT世、頭をひねりましてな。折しもバチカンへ巡礼する予定があり、その途上で 見た夢で『ここに教会をつくりなさい』と、大天使ミカエルよりお告げがあった旨を教皇に伝えました。教皇はよほどつらにくく思ったことでございましょう が、事は大天使さまよりのお告げです。業腹ながらも許可しないわけにはいきませぬわな。で、この地にまんまと教会を建設し、当時北方で勢力を伸ばしつつ あったドイツ騎士団領から騎士を呼び寄せ(彼らもまた、キリスト教を奉じる宗教戦士ですからな)、十全の守りを固めて腰を据えてしまった、という運びでご ざいます。

この時できた小さな村を基盤に、19 世紀末にかの狂王・ルートヴィヒU世が建設を進めたのがリンダーホーフ城、ということになります。しかし元は国境警備のための屯所ぐらいの意味しか持たな かった村でございますから、当然まわりには山と森以外なにもありませぬ。城にむかう道も、古式よろしく馬車などで行くのだとすれば、寂しいことこの上ござ いませんわ。なるほど、政治をうとみ、極端に内向的であったかの王様であれば、このような浮世離れした土地に夢のお城を造りたがるのも、判らないこともあ りませぬな。

ルートヴィヒU世が狂王と呼ばれる由 縁(ゆえん)。芸術振興にいれ込み過ぎて、かの高名なるリヒャルト・ヴァーグナーを始めとする芸術家諸氏に食い物にされ、また理想のお城造りに湯水のごと くお金を浪費して、著しく国庫を傾けたことがなによりの要因でございましょう。またかの王様、生涯ご婦人を愛するということがありませんでな。婚約は一度 ほどあったようでございますが、残念ながら成就しておりませぬ――その何故はお察しあらんことを、お客様がたにお願いさせていただきまして、そんなルート ヴィヒU世ではございますが、彼の領地に住まう村の人々にとっては、良き領主様であったようでございますな。
斯様に山深い土地でございますから、然したる産業も活計(たつき)の術もございませぬ。そこへ離宮じみた王様の居城が造られるとあれば、それにつれて仕事 がやって来ます。その上できたらできたで、以後は建物の管理やら道路の維持などの資金が支給されますわな。つまり、ルートヴィヒU世は村にうるおいを与え てくれたのですな。ですに王の晩年、バイエルン政府が精神異常を理由に王権を剥奪し、その旨を告げる諮問委員会の使者がこちらに
(その当時王がおわしましたのは、ノイシュヴァンシュタイン城でございます)やって来たとき、村人こぞって道に立ち塞がったそうでございますわ。

『何が狂人だ!オラたちの王様は狂ってなんぞいやしねぇ。あれだけオラたちに良くしてくれた王様が、どうして狂人なもんか。この道は、死んだって通しゃしねえだ!』

と口々に叫び、村はそれこそ一触即発 の状態に。初めのうちこそ、政府や王国の重臣たちの仕打ちにあらがわんと、あるいはオーストリアへの避難などをお考えあったルートヴィヒ王でございました が、それを聞いて領民たちのけなげさに心を打たれ、無為な流血を避けるべく、絶望と屈辱と、そしてなによりも大きな諦観とともに、使者をお城に向かえたそ うにございます――このような逸話も、彼の生涯にはあったようでございますな。

そんなこんなでリンダーホーフ城に到 着しました。添乗員さんがまとめて買ってきたチケットは、案の定ニンフェンブルク城で見たものとまったく同じ紙質とレイアウトをしておりまして、違うのは 紙の色のみ――と、そこへ何やらちいさな騒がしい大群が、吾が輩たちが来たのと同じ坂道を登ってきます。これなん、どう見ても社会見学の小学生のようでご ざいますわ。人数にして一個旅団ほどはいるでしょうか(うそ)。これは予想もしない番狂わせになるやもしれませぬ。
さっそく入り口の門をくぐり、散策ルートのような小径をそぞろに歩いて行きますと、すぐにも
リンダーホーフ城が 姿をあらわしました。パッと見ですと、奥行きも広がりもない、立方体の建物のようにしか吾が輩の目には映りませなんだ。ここで、小学校軍団と吾が輩たち パックツアー一行と、後から来たアメリカ人団体がはち合わせ、十分ぐらい待たされましたわい。結局まず小学生軍団が入館(入城ですかな?)し、それからさ らに十分ほどして吾が輩たちの番でしたわい。入るとまず王様が心酔していた、フランスはブルボン王朝の太陽王、ルイ14世の騎馬像が吾が輩たちを出迎てくれましたわい。次は王様のコレクションである中の、大きな紺色の壷が置いてありました(写真は恥ずかしいまでにブレブレでございますが)。ちなみに、こちらのお城もフラッシュ禁止でございました。

王様はいたくおフランス(というより はルイ14世)に熱を上げておりましたから、前日に見学したニンフェンブルク城をはじめとして、内装の意匠はおおよそがベルサイユ宮殿を模範として造られ ており、豪華ではありますが、かなりゴテゴテした観も否めませぬ。いわばデコレーションの過ぎたケーキとでも申しましょうか。吾が輩としてはあまりたくさ んは食べること適いませぬなぁ。
しかし、こちらのお城は、せっかくフラッシュなしでパシパシ撮ったのに、みんなブレていて勿体ない事をしましたわ。壁の装飾もマイセンのシャンデリアも、 今のビロードの寝台も、みんな台無しですわい。ま、後ろからアメリカ人団体も迫っておりまして、焦って速写モードで写していたのが災いしましたかな、あ あ……。
外から見た限りでは、かなり狭そうな印象がありましたが、どうしてどうして、なかなか見応えございますわい。そうして、極めつけがルートヴィヒ王の食卓ですな。これこそ、彼をして狂王と呼ばわしめたエピソードを生んだ部屋でございます。

王様人間ぎらいゆえ、食事の時も独り でいることを好まれました。料理人も給仕も、お側に侍ることさえ厭われまして、どうにか食堂を自分だけの空間として使えないものかと腐心されました。さり とて、最低でも給仕が料理を運んでこないことには、食事になりませぬ。そこで王様、名案(迷案?)を思いつかれました。このお城を造る際、あらかじめ食堂 にからくりを仕込むよう設計させたのですわ。
王様思案の末、食卓をエレベーター式にして、真下にある厨房から料理が直接配膳されて上がってくるよう工夫したのですな。これで誰にも気兼ねなく、存分に 独りの食事を満喫できたわけでございます――が、これが悪うございましてな。王様、自分の世界にひたるだけならどこからも文句は出ないのですが、ある時そ れを口に出して聞かせたのが、まさに運の尽きでしたわい。

『今日の食事には、ルイ14世とマリー・アントワネットがご一緒してくれたよ』
使用人たち、日々ともに暮らしている ので、そのあたりは心得たものでございます。もとより夢見がちなことを好む王様のこと、またそのためにしつらえたような食堂であることも先刻承知であれ ば、微笑ましいとはとてもでお世辞にも言えませぬが、どのように食事を愉しもうが気にも留めません。しかし、これが流れ流れてバイエルンの諮問機関の耳に 入ってしまい、“王様乱心”のレッテルを決定付けられてしまったのですわ。
――そんな話を思い起こしつつ、吾が輩は複雑な感慨を引きずりながら部屋をあとにしました。なにしろこの場所で、100年ほど前に事実おこなわれていたのですからな。

外に出まして、まだ集合には時間があるので向かいの噴水やあずまやなどを撮影しておりましたら、いつの間にかあと5分というところまで時間が迫ってしまい、吾が輩一行、あたふた焦って走りましたわ。もちろん置いてかれはしませんでしたが、時間厳守を旨とする吾が輩としては、少々バツが悪かったですぞい。
バスは山を下り、今度はかの白亜の城、ノイシュヴァンシュタイン城に向かいます。その前に、オーバーアマガウ付近の小さな町で昼食ということになりました――おや、たしかリンダーホーフ城の地下には、ヴァーグナーの “タンホイザー” を具現化した人口の洞窟があったのでは? 見学できなかったのは、工事中だったのでありましょうか。それとも、時間の都合で割愛されたのでありましょうか……?
そんなこと、実はその時まったく失念しておりましてな。吾が輩の心はすでに次なるノイシュヴァンシュタイン城に飛んでおりました。ちなみにディズニーランドのシンデレラ情は、こちらのお城をモデルに造られているそうでございます。

吾が輩一行は、昼食を摂るにもみなさ まと同じレストランではちと賑やかすぎるであろうと、少しばかり町を歩いて他のお店を探してみました。しかしちいさな町ゆえか、視界のおよぶ範囲にはどう やら存在しない様子。しかたなしにパスプールまで戻ろうと引き返した吾が輩たちの鼻腔をくすぐるのは、農村育ちの方にはおなじみの、あの香ばしい匂い。吾 が輩ふと傍らの農家の垣根を見ればそれもそのはず。歩道に面した一角に設けられている、ブロックで高く囲まれた堆肥置き場に、ほどよく混ぜ合わされたわら と牛糞が山積みにされているではありませぬか! これにはたまらず、吾が輩一行は足早にバスプールそばのレストランに駆け込みました次第にございます。
昼食に、吾が輩ハンガリー風仔牛の煮込みをいただきました。見たところ、いかにもちょっと流行っている田舎のレストランと言ったところでございますが、こ こでもメニューには日本語の解説がございます。するうちに、やけに予約席が多いと思っていたら、そこはいつしか到着した日本人団体客で占められました。も しかしたら、かつてノイシュヴァンシュタイン城を観光されたお客様がいらっしゃれば、やはりこちらのレストランでお食事されているやも知れませぬな。それ こそ定番のお店なのかも。

昼食が終わり、20分ほど時間ができ たので、吾が輩一行はレストランの向かいにある “骨董” と漢字で書かれたお店に入ってみました。骨董とはよくも称したもので、レベルで言えば『世田谷ボロ市』といった風情でございますわ。ゆえに日用雑貨が数多 く、値打ち物とは稀にも出会えないような品揃えではございますが、車輪が木でできている三輪車は、あるいは子供用のダルマ自転車は、ちと吾が輩の心琴に触 れ申したな。店の内部は半分が古書の棚になり、また半分はレジとアクセサリーなど小物が置いてありました。その中に鉄十字勲章がありましたが、かなり錆び ておりまして年代が特定できず、また売りに出しているくらいだから騎士十字章であろうはずもないと取り敢えず無視を決め込みました。
ひやかしで古書の部屋に入り、中央に置いてあったガラスの棚に何気なしに目を遣ると、一風変わった豆本が飾られております。およそ6×7cmほどの変色した豆本の表紙には、どれも襟元に騎士十字章を飾った空軍や国防軍の軍人たちが写っております。
もちろん白黒印刷ではありますが、題名部分(これは本人の名前のようですな)は赤地に白の配色。吾が輩これを見て、かつてのナチス・ドイツ軍の広報誌 “シグナル” を思い出しましてな。またこれらの豆本が何であるかを確信させたのが、その側にあった3.5×4.5cm程度のさらに小さな豆本でございました。その中の一冊にはしっかりと『DES FUHRERS KAMPF ZUR SEE(ウムラウトが表示できないのが恐縮ですが、意味としては “総統、海の戦い” とでもなりましょうか)』と書かれているではありませんか!
これは掘り出し物でしょう! 吾が輩無性にほしくなりましてな。大きいほう(おそらく武勇伝)5冊、小さいほう3冊(ヒトラー物2冊、ノルウェー戦1冊)すべてを買ってしまいましたわ。まとめ買いなのでお店の方も値引きしてくれましてな、吾が輩またもやホクホク顔でバスに乗り込みましたわい。

武勇伝のほうは裏表紙に全20冊分の 英雄の名前が列記されておりまして、吾が輩かなりドイツ軍の騎士十字章受勲者の名前は知っているつもりでしたが、ギュンター・プリーンぐらいしか判りませ なんだ。まだ戦争中期の出版らしく、ハンス・ウルリッヒ・ルーデルやミヒャエル・ヴィットマンなどの名はありませぬな。それにしても、どうして “アフリカの星” こと撃墜王ハンス・ヨアヒム・マルセイユの名前がないのでしょうか? これは吾が輩、どうにも解せませぬわい。
この豆本、然してページ数も無いことから、おそらくは子供向けの戦意高揚を狙った出版物ではないかと思われます。かつて日本でも『少年倶楽部』などの雑誌に、前線の兵士の武勇伝などを載せていたのと同じ趣向ですな。

そんなこんなでノイシュヴァンシュタイン城に到着し、バスは麓の駐車場まで。あとは馬車を使うか自らの脚に頼るほかはありませぬ。吾が輩一行はパックなので、取り敢えずお城の見学が終わるまでは一蓮托生でございますれば、徒歩でまずお城の全景が見渡せる、裏手の山にかかる吊り橋に向かいました。
坂道の勾配は結構きつく、ご老人たちならば迷わず馬車をご使用になることをお勧めしますな。で、その吊り橋、なにしろあの華麗なる城をすべてファインダー に収めることができますゆえ、かなりの人でごった返しています。吾が輩も勇んで足を踏み入れますと、これがまた高い高い!
谷底の渓流まで80mぐらいはありましょうか。かつ橋の踏み板も心憎いばかりの間隔で隙間が空いておりましてな。養父どのをはじめとして――というより吾が輩以外は、お城の写真を撮ったらすかさず戻って行きましたわい。
ま さに煙となんとかは高いところが好き、を体現してから、登ったり降りたりの馬車とすれ違いつつ、お城の下へと道を進みます――と、落胆したのは、お城は部 分々々で改修が為されており、ビニールシートがかかっていたことですかな。ちなみに世紀末ドイツを総じて申し上げれば、建物などはそこここで改修が行われ ておりました。マリーエン広場のシンボルであるマリア像しかり、リンダーホーフ城の一部しかり。すべては新しい世紀を迎えるにあたり、まぁお色直しという 感じで面貌を隠しているところは多うございましたわ。

して、ノイシュヴァンシュタイン城の中庭に 入りました。こちらは全域撮影禁止になっておりまして、入口前にはすでにそれを示す看板が掲げられております。かといって、こちらのお城は見てくれは壮麗 にできあがっていますが、内部は三分の一ほども着手されていない――というよりは、その時点でルートヴィヒ王が薨じてしまい、手付かずのまま保留されてい るのですな(ま、先に進めようもないのですが)。
さて入城ですが、入口は英語、フランス語、ドイツ語、日本語に別れています。かと言って中でそれぞれの言語のガイドさんが付くかと思えばそうでもなく、あれは何だったのでございましょう? そんな疑問をお共に連れ、城内を観覧しておりましたわい。
四人詰めの使用人用住居、寝台、おきまりのベルサイユ宮殿風の廊下とシャンデリア……などなどありますが、このお城で唯一という施設は、最上階にあるオペ ラ劇場でございましょうか。オペラと言うからには、ルートヴィヒ王はここにてヴァーグナーを上演するつもりのようでございましたが、敢え無くも王のご存命 中は実現しませなんだ。
ちなみにこの舞台でようやく初演ができたのは、はるかに時を経て1933年ということです。主催者は誰か? ――それは申し訳なくも確認しておりませんが、時期的に見てヒトラーあたりではないかと思われますわな。なにせヒトラーも熱狂的なヴァグネリアンでござい まして、権力を掌握してからはやはり陰にひなたにヴァーグナー家を援助していたくらいでございましたからな。ですがそれがのちのち仇となって、連合軍のお 達しにより戦後しばらくは上演禁止の措置がとられてしまったのでございますが……おやおや、話が飛んでしまいましたわい。

ちなみに、こちらは先程も申し上げま した通り、ルートヴィヒ王がその王権の最期を迎えた城でございます。そしてご自身の最期は、幽閉先のシュタルンベルク湖畔にあるベルク城にて身罷られたの でございます。ベルク城は、王様がもっともお気に召されていた城のうちのひとつでありましたが、幽閉に際して無残にも窓という窓に鉄格子、扉という扉にの ぞき窓が開けられるという、人もなげなる残酷な改装がなされていたそうでございます。して、王様は最期の日(1886年6月13日 午後6時〜7時)、バイエルンより派遣されてきたの医師うちの一人、フォン・グッテン医師と舟遊びにお出かけになられ、午後11時すぎに二人して溺死体と なって発見されたのでございます。事の真相は、今もって謎とされております。
自殺説、謀殺説――ありがちな推測は、現在もそこここで囁かれていることでございましょう。ルートヴィヒ王には、あの日より監視人がつくようになっており まして、この日も午前中に二名の監視人が王に付き添っておりました。しかしこの舟遊びに限って、フォン・グッテン医師は付き添いの申し出を拒否したそうに ございますわい。これがために起こった不幸でありますゆえ、この事件はさまざまな憶測をいやがおうにも呼んでしまうのでございましょうな。

とまれ、オペラ舞台の次は階段を降り、広い厨房へと移りました。こちらは水まわりやオーブンなどの配置が効率的に設定されておりましてな。たとえば給水場 をここより高い山の上に作って水圧を一定にさせたり、オーブンで発生した余熱で炙り肉をこさえたりと、非常に使い勝手のよいお台所であるようでしたぞ。
お台所で、ノイシュヴァンシュタイン城の見学はおしまい。あとは麓の駐車場までテコテコ歩いて下山です。

道には馬車が通った証拠がいくつも山 をなし、強くは臭わずとも、やはり好い気分はしませんわな。そんな中で、ある外人の家族連れのちっちゃな坊やが、タイヤの回るのが面白いのか、前を行く馬 車の後ろを歓声をあげながらずっとつけております。吾が輩一行は、その可愛らしい姿を微笑ましく眺めておりましたが、坊やあまりに熱心なため、両親たちが 脇道にそれたのに気付きません。はたと振り向けば、そこには美しき独身貴族と見知らぬ東洋人の一行のみ。母親の呼ぶ声はすれども姿は藪のむこうで見えませ ぬ。坊やたまらず泣き出して、声のする方に駆け出します。仕方なしに母親が迎えに出たようですが、脇道に入る前に声をかけるのが先ではないかと、我輩思う のですが。

麓の駐車場付近には日本のお店が 一軒ありまして、たしか三越などが入っていたように記憶しております。発車まで時間がございましたが、吾が輩もちろんひやかしもせず、表で一服しておりま したが、その実どうにも冷たいものを口にしたい。背中のミネラルヴァッサーはすでに人肌を通り越して微熱を発しておりまして、とてもで涼味を与えてはくれ ませぬ。そこで吾が輩意を決し、売店にアイスを買いに行きましたわい。
何と言うブランドか忘れましたが、今まで赴いた観光地には必ずあったロゴマークを頼りに店に入ると、ボックスの中にさまざまな種類のアイスがひしめいてお ります。その上には丁寧に写真付きの値段表が立ててあり、吾が輩は一番安いオレンジのアイスキャンデーをカタコトで、それも情けなくも英語で注文してしま いましたわ。

『オレンジ・アイスキャンデー・プリーズ』『オレンジ?』『イエス』

あとはお金を払っておしまいですわ。吾ながら語学力の無さに呆れるやら悔しいやら、それでもアイスが美味しかったのがせめてものお慰みですわい。

出発には二名の迷子が出て一時慌てま したが、集合場所をちょっと離れた場所に間違えていたことが判明して一軒落着。バスは一路ミュンヒェン目指して走り出します。時間的には夕刻ですが、夏の ドイツの昼は長いので、窓外は感傷的な色合いにひたることなく、相も変わらずのどかな農村風景を現出させておりました。
ホテル前に到着してパックツアーは終了。添乗員さんにお別れの挨拶をし、二階の女性陣の部屋でひと休み。で、夕飯をどこで食べるかになりましたが、時間が あるので中央駅付近で買い物をしてから、マリーエン広場にあるイタリア料理屋に行こう、ということに決まりましたわ。なにゆえ中央駅まで出張らなくてはい けないかと申しますと、ドイツの夏がかくも暑くなるとは予想しておりませんで、Tシャツ類を少なめにしておいたのですな(直前の義妹からの情報でも、けっ こう肌寒いという報告が入っておりましてな)。そこで予想外の晴天続きに、替えが無くなってしまい申した。また靴下もストックが切れそうでありまして、急 遽衣料品を仕入れる必要が生じたわけでございます。併せてまたぞろ義妹も日常の化粧品を買うとかで、それで量販店(とはちと異なりますが)ミュラーの一番 大きい店のある中央駅に出ることになったのですな。

さて、吾が輩の衣料品を買い揃えたの はミュラーではなく、とあるデパート(らしき)店でしたわ。そこで16DMの一番安いTシャツを三着、9DMで十足の靴下を買いましたが、閉店間際だから か、店員の愛想の悪いこと悪いこと。ブスっとした顔でハンガーごと袋につっこんでおりましたわい。吾が輩の買い物はこれでおしまい。
それからミュラーに移り、義妹をはじめとする女性陣は化粧品と日用雑貨を買い込み、吾が輩は階上のCD売り場にて、ミュンヒェンの売れ筋の市場調査をして みましたわ。とまれさほど広くない店内には、海外のポピュラーなものとドイツ国内の判別つけがたい種のCDが並んでおりましたが、インディーズの欄に
デッド・ケネディーズが置いてあったのは意外でしたなぁ。そしてきちんと “テクノ&ハウス” の欄があったのは、さすがドイツといったところでしょうか。
やはりハードコア・パンクのCDなど揃えているはずもなく、吾が輩すぐにも飽きてしまい、店の外にでてそぞろに建物のつくりを観察しておりました。タバコを吸い吸い、モダンな内装を見遣りつつ、暇を持て余して写したのが
この写真でございます。意味ね〜。

ま、それでも今日は買い物は早く済ん だほうでした。S−BAHNに乗り込みましてマリーエン広場に移り、義妹の案内でそのイタリア料理店へ。ヴェランダに似た屋外の席に座を占め、頼むはもち ろんパスタ。みんなボンゴレやナポリタンを注文するなか、まことに申し訳ないことに、吾が輩なにを食べたのかすっかりその名前が思い出せませなんだ。
なにせ初めて聞く名前を珍しく思って注文しましたゆえ、美味しくいただけたことだけは思い出せても、名前だけはどこをどうつついても出てきませんのです わ。ただヌードルではなく、蝶のようなパスタにチーズっぽいオレンジ色のソースがかかっていた料理でございます。あんなに美味しかったのに……。おお、こ れは失敬失敬。
さてさて、食事のあとはデザートでございます。吾が輩久しぶりにチョコレートパフェをいただきました。しかしイタリア料理というのは、どこで食べてもなぜ 美味しいのでございましょう? また今に限らず、イタリア製の衣料や装飾品はかねてよりその品質でヨーロッパにあまねく知られておりますしな。あるとき自動車評論家の徳大寺有恒氏がなに かの番組でおっしゃられておりましたが、かの国は紀元前からずっと先進国であった、というお言葉は、けだし妙言かもしれませぬ。ま、長い歴史のうちでは、 何度か凋落の憂き目に遭いもしましたが、それでも国際的な大舞台から締め出しを食らったことはそうそうありませぬ――ただ、ファシスト・イタリアは正直 言っていただけませぬわ。
なにしろ当時のイタリアは、枢軸国にとってただのお荷物でしかありませんでしたからな。パリを陥としたドイツ軍のおこぼれを狙って南仏に攻め入ったはいい ものの、敗残のフランス軍にコテンコテンにやられているのですから言葉もありません。それも、ムッソリーニ親方(ドゥーチェ)は出撃前夜にとある将軍か ら、
『親方、それはあまりに卑怯でございます!』などと、国家元首ともあるまじき非難を浴びてまで強行し、その上での敗走ですからな。
ちなみにかの名将・ロンメル将軍がアフリカ軍団を率いて地中海を渡ったのも、すべてムッソリーニ親方の子供じみた夢想の果ての、タチの悪い火遊びの尻拭い なのでございますぞ。アフリカ戦線なんぞはヒトラーにとっては無駄な出費でこそあれ、得るところのまったくない、まさに無益な戦争でありましたわい。一方 で極東の日本は南洋のイギリス・オランダ相手に戦争するかと思えば思い余ってアメリカに喧嘩を売るし、まこと盟友に恵まれなかった第三帝国は、当然世界制 服などおぼつきませんわなァ。
おやおや、話が逸れてしまいましたな。これは失礼しました。さてこのお店、一定額食事するとインターネットができまして、もちろんホームページも持ってございます――が、これまた申し訳ないのですが、そのアドレスもただいま捜索中にてございます。

して、どうにかやっとこちらのお店のHPを見つけましたわい。
http://www.icafe.spacenet.de/
こちらでございます。もちろん、言語はすべてドイツ語でございますゆえ、読解力に自身のあるお客様はぜひご覧いただけますようお願い致します。

インターネットができるとはいえ、有 効時間が十分なので悠長にネットサーフィンしているわけにもいきませぬ。で、従姉と義妹は日本に残った義弟に宛ててメールを出すことにしました。しかし、 これは何と言うOSでしょうか? MacでもWinでもなく、はたまたUnixでもないようです。コンピュータもどこか知らないメーカーにございますし、もしかしたらドイツ独自のメーカー とOSなのでしょうか? 画面上にはネットに接続するためのアイコンしかなく、右クリックも効きません。どうにもシステムを確認できぬまま、とりあえずメールを出そうと四苦八苦。 ようやく開いたブラウザ(なんだかネスケによく似ていました。確証なし。なんだか今回は曖昧な情報ばかりで本当に申し訳ございませぬ)のメールを開き、宛 名に義弟のアドレスを入力。これで良し、と吾が輩急にもよおした尿意に導かれるままおトイレへ。その間に、従姉と義妹は送信を済ましておりました。
それにしても、OSの正体がつかめなかったのはまこと心残りでございます。ちなみに、メール作製画面には “このソフトは送信だけであなた自身のアドレスでは受信できないから、注意してメールを出してね” とことわりが表示されておりました。そりゃそうでございましょうなぁ。

食事を終えたあとは、しばし新市庁舎 前付近を、明日の下調べとばかりに散策してホテルへと帰りました。明日は市街観光を兼ねた買い物ツアーの予定。どうやら吾が輩は時間を持て余しそうな気配 でございます。そして夕食は、義妹が語学学校で知りあったお友達と会食ということ。さてどうなりますやら……。

 

お戻りはこちらでございます

7月6日に向かわれますかな?

 

1999.8.21 (C)Mephistopheles von Muenchhausen